音にかんするふしぎな体験がある。
それはヨガに参加したときのことだ。そのとき家ではイベントをやっていたのでたくさんの人が来ていた。その階下のざわめきが聴こえる。庭で子どもたちの遊ぶ声がはっきりと聴こえる。
一方で、部屋ではいわゆるヒーリングミュージックのCDを流していたはずだが、それを「音楽」として認識していたという記憶がない。
日常とは異なる身体状態・精神状態におかれたとき、僕の聴覚は日常的意味を失ったのかもしれない。
日常的意味を失ったすべての音は等価であり、混沌である。
僕はそれを理解した。
武満徹の本を読んでいたら、尺八の名人の演奏中、すき焼きの煮える音や表通りのダンプカーの音が尺八の音と等しく明瞭に聴こえたという体験が語られていて、似ているなと思った。
ヨガのようなフィジカルな操作なしに、聴き手をそのような精神状態にもっていく演奏とはどのようなものだろう。
尺八の名手が理想とする至上の音は、風が古びた竹藪を吹き抜けていくときに鳴らす音なのだという。作曲家や演奏家の「個」を重視する西洋音楽には存在しない考え方だ。
武満は「作曲するということは、われわれをとりまく世界を貫いている《音の河》に、いかに意味づける(シニフィエ)か、ということだと気づいた」と語っている。
あのとき僕がみた原初の音の風景、あれこそが《音の河》だとしたら、そこに意味づけを与えるような作曲や演奏とはどのようなものだろう。
考えただけでぞくぞくする。