吉本隆明は『未来の親鸞』の中で、悪人正機説に触れて「通俗的な解説」と断りながら次のように言っている。
人間は、善いことをしている、とじぶんがおもっているときには、だいたい悪いことをしているとおもうとちょうどいい、そうなっているんじゃないでしょうか。それから、ちょっと悪いことをしてるんじゃないか、とおもっているときは、だいたい善いことをしているとおもったほうがいいのです。
これは僕の人間観としてはよく呑み込めるのだが、この価値の逆転を実践することは非常に難しい。自分はいま悪いことをしている。するとこれはよいことなのかもしれない。そう考えた時点で、悪いように見えて実はよいことをしているのだという免罪の意識が生まれる。するとやっぱり悪いことをしているのかもしれない。そういう合わせ鏡のようなパラドックスに陥ってしまう。そんなアホな。
合わせ鏡で思い出したが、僕は小学校に入った頃ひらがながうまく書けなかった。先生が黒板に「の」の字を書く。先生は後ろ向きに書いているのだから、文字も裏返しになっているはずだ。そう考えて裏返しの「の」の字をノート書く。だが今度はノートに向かう自分の後ろ姿を想像すると、なんと後ろ向きになっているではないか! もう一度裏返さなくちゃならない。それでやっと納得する。そうやって人より一周余分に回らないとスタート地点にたどりつけない、そういう難儀な子どもだった。これって今なら発達障害と呼ばれるだろうね。
話が逸れた。僕はね、善人になるつもりはないが偽善者にもなりたくないのです。どんなに悪いやつより偽善者のほうが嫌いなのです。偽善には敏感です。それは僕自身がそうであるからです。いっそ悪人になればよいのかとも考えるけど、今度は「偽善者にならないために偽悪者になっている偽善者」というややこしいスタンスになってしまうわけだ。
いまだに僕は物事を何度もひっくり返して悩んでいる。善悪の問題は僕にとってかなり切実である。