神聖かまってちゃんがテレビに出たらしいと。それも生で演奏したらしいと。
動画を見て悲しくなりました。音楽を放棄してはいかんだろう。場を支配しているようでいてじつは場に呑まれてる。そんな自分を鼓舞するために無理やりテンションを上げているようにしか見えなかった。そこが残念。
ただこれね、表現者が表現の本分を捨てるという表現なわけで、意外と古典的なことをやっていると思いました。でも個人的にはあまり好きじゃないですね、こういうのは。
で、まあちょっと考えたわけです。
僕の自我の目覚めはロックとともにあった。かっこよく言うとですがね。それゆえ僕の人格と音楽との結びつきは深いと思っていますが、今は音楽なんてなくても生きられます。No Music, But Alive.
僕はどちらかというと楽器を弾くのが好きなんだと思う。一日の中で音楽を聴く時間はさほど多くない。情報収集のようなことはするが、わざわざCDをかけたりはあまりしない。それよりも楽器を弾いている時間のほうがはるかに長い。時間があれば一日中でも弾いている。こういうとき肩が凝らない体質でよかったと思います。
心底音楽が好きなら、演奏者ではなくリスナー寄りになっていたと思う。10代の自分はそうだった。ギターを弾くのも好きだったが、それ以上に音楽を聴くことに渇望していた。
音楽と楽器の関係は切っても切れないようでいて、案外切ったら切れるものかもしれない、と最近考えてます。
音楽とは多分に抽象概念のようなものであり、古代においてはおそらくそのような概念はなかったはず。太鼓、笛、声。音楽が先にあったわけではなく、音を発するものが先にあった。それらを鳴らしてみたら何かが生じた。リズム、旋律、ダンス、高揚、神秘。それら一次的な生成物とくらべて、音楽という抽象概念は果てしなく遠い。
我々は楽器を弾きはするが、必ずしも音楽を奏でる必要はない。
音楽番組に出演した。楽器を抱えてTVカメラの前に立った。だからといってそこで音楽をやらなければならない理由はないわけです(大人の事情はおいといて)。
楽器を持って人前に立ち、音楽を放棄する勇気は僕にはない。でももし非常にプリミティブなレベルでそれができれば、ある意味最高の演奏なのではないかと想像します。それに近いことをやっていた稀有なバンドが「たま」だったと思います。